執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)
FIFAワールドカップ・カタール大会では、日本チームの活躍で日本国内は大いに盛り上がった。本稿では、ワールドカップにまつわるいくつかのエピソードやその他の話題について紹介する。
1.ラテンアメリカのサッカーにまつわる4つの悲劇的エピソード
日本のサッカー界では「ドーハの悲劇」という言葉を頻繁に耳にする。要するに、日本の初めてのワールドカップ出場がかかった1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会のアジア予選において、それまで1位だった日本が、最終第5節のイラク戦での終了間際に得点を許し、引き分けとなり、得失点差で韓国が出場権を得たケースである。2022年ワールドカップがカタールの首都ドーハで開催され、日本がドイツやスペインを破り、ベスト16にまで進んだことで、より一層「ドーハの悲劇」がクローズアップされることになったのであろう。しかしながら冷静、客観的にみると、この種の話は、世界のサッカー界ではよくある話だと言える。日本代表も近い将来ベスト8を目指すというのなら「ドーハの悲劇」という他人事のような名称ではなく「ドーハの油断」と名称変更をしたほうが良いのかもしれない。その点、ラテンアメリカで起こった下記の4つの悲劇的エピソードははるかに深刻な話である。高齢のサッカーフアンなら誰もが知っている話であるが、ウイキぺディアやその他インターネットの情報に基づき簡単に紹介しよう。
1)マラカナンの悲劇
時は、1950年7月16日、1950年FIFAワールドカップ・ブラジル大会での出来事である。173,850人の観客で埋め尽くされたリオのマラカナン・スタジアムで決勝リーグ第3戦、ブラジルとウルグアイの試合が行われた。後半最初に、ブラジルが先制し、ブラジルの勝利かと思われたが、後半21分にウルグアイのフアン・アルベルト・スキャフィーノ、34分にギジャがゴールし、ブラジルが敗戦したというストーリーである。
*会場は静まりかえり、2名がその場で自殺、2名がショック死、20名が失神したと伝えられている。
*ブラジルチームは、白のユニフォームで戦ったが、この事件以降、白を避け、現在のカナリア色のユニフォームになった。
*当時ブラジルには人種差別が残っており、黒人3名に怒りが向けられた。とりわけブラジルのキーパーのモアシール・バルボーザは死ぬまで「疫病神」扱いされたという。
*この時、9歳だったペレが、落ち込んだ父親を「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードはよく知られている。ペレは、2022年12月29日、82歳でこの世を去った。ブラジルを3度のワールドカップ優勝に導いたまさに「サッカーの王様」であった。
*ウルグアイ側のエピソードとしては、ブラジルに先制された後、キャプテンのオブドゥリオ・バレラがチームのメンバーを集め、「勝つときが来た」と鼓舞したことはよく知られている。
*この事件は、マラカナンの悲劇、ポルトガル語では「Maracanaço」、スペイン語では、「Maracanazo」と呼ばれている。
2)ミネイロンの悲劇
時は、2014年7月8日、ブラジル、ミナスジェライス州ベロオリゾンテ市にある「ミネイロン・スタジアム」(正式にはゴヴェルナドール・マガリャンエス・ピント・スタジアムと呼ばれる)で行われた準決勝戦で、ブラジルがドイツに1対7という屈辱的大差で敗れた話である。「マラカナンの悲劇」が起こった1950年ブラジル大会に次ぐ、2回目の母国での開催であった。この時は、ネイマールが脊椎を骨折し、残り試合の出場が不可能となり、キャプテンのチアゴ・シウヴァが累積警告で出場不可という不運が重なった。ブラジルでの開催は24年ぶりの開催とあって、優勝が期待されたが、前半だけで5点を奪われ、しかも4分で4失点を重ねる有様であった。
*試合後ドイツ・サポーターの身の危険を確保するために、英語とドイツ語で、ドイツ・サポーターはすぐにスタジアムを出ないで留まるようにとのとアナウンスが流れたという
*試合終了後、ブラジル各地で暴動が発生、サンパウロやリオデジャネイロでは略奪行為が行われた他、サンパウロではバス20台が放火された。ベロオリゾンテ市内では8日夜、一部のファンがブラジル国旗を燃やしたり、暴徒化した数十人が道路を封鎖したりするなどした。
*翌日の主要紙は、こぞってブラジルのセレソンや監督のフェリポンを厳しく非難した。グローボ紙の見出しは「恥、屈辱」、「ブラジルは殺された」、フォーリャ・デ・サンパウロ紙の見出しは「歴史的屈辱」であった。
*大きな傷跡を残したと言えるが、さすがブラジルで、2016年夏のリオデジャネイロ・オリンピックでの男子サッカー決勝で再び両国が交えることになった、1対1のままPK戦になり、5人目のドイツ選手が失敗、5人目のネイマールが成功し、見事優勝を飾った。
*今回のワールドカップ・カタール大会では、日本がドイツを破ったことは、ブラジル人にとって信じられないことではあったと思われるが、うっぷんを晴らした出来事だったに違いない。
*この事件は、「ミネイロンの悲劇」、「ミネイロンの惨劇」と呼ばれており、ポルトガル語では、「マラカナンの悲劇」に因んで、「Mineiraço」、スペイン語では、「Mineirazo」と呼ばれている。
3)サッカー戦争
時は、1969年、7月14日から18日まで繰り広げられた中米のエルサルバドルとホンジュラス間の戦争のことを言う。スペイン語では、Guerra del Futbol(サッカー戦争)とかGuerra de las Cien Horas(100時間戦争)と呼ばれている。
戦争の原因は様々であるが、直接のきっかけは、1970年ワールドカップ・メキシコ大会の中米予選とされている。メキシコは開催国のため予選が免除され,すでに出場権を得ていたため、初めてのワールドカップ出場を目指す両国にとっては絶好の機会であった。第1戦はホンジュラスの首都テグシガルパで6月8日に開催され、1対0でホンジュラスの勝利、第2回戦は、6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われ、エルサルバドルが3対0で勝利した。例によって、これらの試合前には、相手選手の滞在ホテル前でサポーターが大騒音を出し、相手国選手に睡眠をとらせないようにするとかサポーター同士の争いが見られた。この対戦はプレーオフに持ち込まれ、第3戦は、6月27日に中立地のメキシコシティのアステカ・スタジアムで開催され、好試合の末に、エルサルバドルが3対2で勝利した。
当時、エルサルバドルの人口は300万人で、ホンジュラスはその5倍の面積を持ち、人口も230万人であった。そのため、エルサルバドル人は土地や米国企業での雇用を求めて、以前より30~50万人がホンジュラスに移り住んでいたと言われている。また両国の国境問題やエルサルバドル産の工業製品の流入等の貿易摩擦問題等が重なり、一発即発の状況下にあった。そのような時に、ホンジュラスのアレジャーノ大統領によって、農地改革法(1962年制定済み)が1969年4月に実施されると発表された。その内容は、土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので[、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求めるというものであった。同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった。このような状況下、エルサルバドル政府は猛烈に反発し、予選最終戦が行われる前日の6月26日にホンジュラスとの国交を断絶することを決定した。
戦争は、4日間にわたり、陸軍、空軍の争いになったが、その詳細については、本稿の目的ではないのでふれない。最終的に、両軍に3,000人の死者、15,000人の負傷者が出て停戦の運びとなった。
7月18日の朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、下記の4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した。
このように停戦にこぎつけたが、その後の両国の関係は数十年にわたり、貿易取引はなく国境は閉鎖されたままであった。
4)コロンビアのアンドレス・エスコバル選手射殺の悲劇
時は、1994年7月2日の深夜、コロンビアのメデジン市のバルで友人と夕食後、コロンビアのナショナル・チームのキャプテンであったアンドレス・エスコバル選手が、バルから出たところ、暴漢に射殺され、27歳で死亡した。犯人は麻薬のシンジケートに属するカルロス・ムニョスであった。
1994年のワールドカップ米国大会では、コロンビアは有名なバルデラマ、アスプリージャ、リンコンなどを有し、優勝の一角として期待されていた。エスコバル選手も国内リーグで活躍し、クラブ南米選手権のリベルタドーレス杯の優勝にも貢献した名デイフェンダーであった。大会終了後には、ACミランへの移籍も決まっていた。
米国大会の予選リーグでは、第1戦でルーマニアに敗れ、第2戦は地元米国との戦いであった。結果は、エスコバル選手のオウンゴールもあり、米国に1対2で敗戦となった。この時、チームはアメリカで解散となったが、代表選手の多くは国民の非難や報復などを恐れて帰国を拒否し、アメリカに留まった。しかし、エスコバル選手だけは「あのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と帰国を決意し、母国コロンビアへ帰国した。その結果のこの惨事であった。
犯人のムニョスは、射殺の瞬間、「Gracias por el auto gol(オウンゴールをありがとう)」と言ったという。この事件の真相は未だはっきりせず、単独犯なのか背後に麻薬シンジケートが存在するのかは判明していない。ムニョスは43年の判決を受けたが、模範囚として刑期を短縮され、11年後の2006年に出所した。
会期中に起こったこの事件は世界に衝撃を与えた。直後の決勝トーナメントのドイツーベルギー戦、スペインースイス戦では、エスコバル選手の死に対し、黙禱が捧げられた。コロンビアではその後4年間、同選手の背番号2は欠番となった。また日本では、1994年までは、オウンゴールのことを自殺点という呼び名であったが、この事件以降オウンゴールという名称が使用されるようになった。コロンビアでは、この事件のことをアンドレス・エスコバルの悲劇(La Tragedia de Andres Escobar)と呼んでいる。
2.ナショナル・チームの監督の輸出国は?
日本のナショナル・チームでもオランダのオフト、フランスのトルシェ、ユーゴスラビアのオシム、ブラジルのジーコ等外国人監督を招いたことがある。2022年カタール大会では、決勝リーグ進出の32ヶ国のうち、72%にあたる23ヶ国が、前回の2018年ロシア大会では、63%にあたる20ヶ国が自分たちの国籍の監督を起用した。
ということは、他の国は外国人の監督を起用したことになる。下記に2大会での外国人監督の起用状況をみると興味のあることがわかってくる。監督の輸出国の内訳をみると、第1位はアルゼンチンで、2大会で6ヶ国に、2位はスペイン、ポルトガル、コロンビアで3ヶ国に、5位はフランスで2ヶ国に、6位はイングランドで1ヶ国に派遣している。不思議なことに、イングランドを除けば、すべてラテンの国である。とりわけアルゼンチン人の監督は断トツで起用されている。サッカー王国のブラジル、ドイツ、イタリア人監督は少なくとも過去2大会での起用はない。サッカーを愛する国民性、明るい性格からラテン系の監督が好まれるのかもしれない。
外国人監督の国籍
国名 | 2022年カタール大会 | 2018年ロシア大会 |
アルゼンチン
人監督 |
3ヶ国(アルゼンチン、エクアドル、メキシコ)自国を除くと2ヶ国 | 5ヶ国(アルゼンチン、サウジアラビア、エジプト、ペルー、コロンビア)自国を除くと4ヶ国 |
スペイン人監督 | 3ヶ国(スペイン、カタール、ベルギー)自国を除くと2ヶ国 | 2ヶ国(スペイン、ベルギー)自国を除くと1ヶ国 |
ポルトガル人監督 | 3ヶ国(ポルトガル、イラン、韓国)自国を除くと2ヶ国 | 2ヶ国(ポルトガル、イラン)自国を除くと1ヶ国 |
フランス人監督 | 2ヶ国(フランス、サウジアラビア)自国を除くと1ヶ国 | 2か国(フランス、モロッコ)自国を除くと1ヶ国 |
イングランド人監督 | 2ヶ国(イングランド、カナダ)自国を除くと1ヶ国 | 1ヶ国(イングランド)
|
コロンビア人監督 | 1ヶ国(コスタリカ)1ヵ国 | 2ヶ国(メキシコ、パナマ)2ヶ国 |
3.ぺナルティ・ゴール合戦の勝者は?
ご承知の通り、決勝リーグに入ると90分の前後半、勝負がつかなければ、30分の前後半、それでも決着がつかない場合は、ぺナルティ・ゴール合戦に突入する。ここに過去5回のワールドカップでのぺナルティ・ゴール合戦の勝敗を紹介する。見ているだけでもハラハラドキドキする。ましてやボールを蹴るプレーヤーにとっては、緊張とプレッシャーでいっぱいに違いない。
見方は、下線を引いた国が勝利国である。また後述する内容のために、〇をつけた対戦は比較上貧しい国が勝った場合で、Xをつけた対戦は比較上豊かな国が勝った場合である。一人当たりのGDPの比較で判断したものである。
2022カタール大会 優勝アルゼンチン 準優勝フランス 3位クロアチア
決勝リーグ1回戦 クロアチア1-日本1 〇
決勝リーグ1回戦 モロッコ0-スペイン0 〇
準々決勝 アルゼンチン2-オランダ2 〇
クロアチア1-ブラジル1 X
決勝 アルゼンチン3-フランス3 〇
2018ロシア大会 優勝フランス 準優勝クロアチア 3位ベルギー
決勝リーグ1回戦 スペイン1-1ロシア 〇
決勝リーグ1回戦 クロアチア1-1デンマーク 〇
決勝リーグ1回戦 コロンビア1-1イングランド X
準々決勝 ロシア2-2クロアチア △(一人当たりのGDPがほぼ同じ程度なので△とした。)
2014ブラジル大会 優勝ドイツ 準優勝アルゼンチン 3位オランダ
決勝リーグ1回戦 ブラジル1-1チリ 〇
決勝リーグ1回戦 コスタリカ1-1ギリシャ 〇
準々決勝 オランダ0-0コスタリカ X
準決勝 オランダ0-0アルゼンチン 〇
2010南アフリカ大会 優勝スペイン 準優勝オランダ 3位ドイツ
決勝リーグ1回戦 パラグアイ0-0日本 〇
準々決勝 ウルグアイ1-1ガーナ X
2006ドイツ大会 優勝イタリア 準優勝フランス 3位ドイツ
決勝リーグ1回戦 スイス0-0ウクライナ 〇
準々決勝 ドイツ1-1アルゼンチン X
イングランド0ー0ポルトガル 〇
決勝 イタリア1ー1フランス 〇
以上のリストから何を引き出せるだろうか? ここから先の推測は筆者個人の独断とご理解いただきたい。
① 比較的貧しい国が豊かな国に勝つパーセンテージが高い。
2022年カタール大会では、4対1,2018年ロシア大会では、2対1(△はカウントしない。)、2014年ブラジル大会では、3対1,2010年南ア大会では、1対1,2006年ドイツ大会では、3対1となっており、5大会の合計では、13対5で圧倒的に貧しい国が勝つケースが多くなっている。推測するに、やはりハングリー精神と一族郎党の生活が懸かっていること、ゴールを外すと帰国後のバッシングが恐ろしい等々といった切実感から来るものと思われる。その点豊かな国の選手は精神的に余裕があるものと思われる。
② 総じて優勝、準優勝、3位の国は、勢いと運に恵まれ勝利するケースが多い。
カタール大会のアルゼンチン、クロアチア、ロシア大会のクロアチア、ブラジル大会でのアルゼンチン、オランダ、ドイツ大会のイタリア、ドイツをみるとわかる。過去5大会でクロアチアは4回のPK戦すべてで勝利している。この事実をあらかじめ知っていれば、カタール大会での日本もキッカーの選択等で何らかの対策が採れたかもしれない。アルゼンチンもPK戦に強く3勝1敗の成績である。
③ 日本は2回経験しているが、いずれも負けている。日本の選手は、まだ経験不足もあり、修羅場やプレッシャーに弱いのかもしれない。今後さらにベスト8まで進む場合、ぺナルティの訓練が必須であろう。
④ ヨーロッパとラテンアメリカの戦いでは、ヨーロッパ4勝、ラテンアメリカ3勝とほぼ互角である。
4.スタジアムの大きさとサッカー強い国との関係
ラテンアメリカでのスポーツ人気度をみると、南米地区は圧倒的にサッカー、ドミニカ共和国、ベネズエラ、キューバを中心とするカリブ海諸国は野球がトップに躍り出る。サッカーも強い国、弱い国、強くもなく弱くもないという中間の国がある。このコラムでは、大きなサッカースタジアムを持っている国とサッカーの強さが比例しているかを見てみよう。ウイキぺディアによるとブラジルには、4万人以上収容できるスタジアム数は25カ所、3万人以上収容のスタジアムが36カ所存在する。一方アルゼンチンでは、4万人以上収容のスタジアム数は14カ所、3万人以上収容のスタジアム数は24カ所である。人口大国メキシコの場合、4万人以上収容できるスタジアムは7カ所、3万人以上のスタジアムは20カ所、コロンビアは、4万人以上が4カ所、3万人以上が7カ所となっている。これらの数字を見るだけで、ブラジルとアルゼンチンがラテンアメリカで最高のサッカー強国であることが理解できよう。もちろん収容能力と国の人口は密接な関係にあることは当然のことである。
下記の表はインターネットから引用したものであるが、2022年12月に発表されたFIFAの最新ランキング100のうち、便宜上、1位から20位の国を強国、50位までの国を中間国、それ以降の国を弱い国と位置付けると下記の表のようになる。
強い国 | ブラジル1、アルゼンチン2、メキシコ15、ウルグアイ16、コロンビア17 |
中間国 | ペルー21、チリ31、コスタリカ32、エクアドル41、パラグアイ46 |
弱い国 | ベネズエラ55、パナマ61、ジャマイカ64、エルサルバドル74、ホンジュラス81、ボリビア82 |
ここからうまく当てはまらないのは、中間国のペルーが85,000人収容の巨大なスタジアムを保有していることと弱い国に分類されるベネズエラが51,796人収容の大きなスタジアムを持っていることである。
国名・WC出場回数 | FIFA
Rank |
スタジアム名 | 収容能力 | 都市 | 完成年 |
メキシコ 13 | 15 | Azteca | 87,523 | メキシコシティ | 1966 |
ペルー 4 | 21 | Monumental | 85,000 | リマ | 2000 |
ブラジル 18 | 1 | Maracana | 78,838 | リオ | 1950 |
アルゼンチン14 | 2 | Monumental | 72,054 | ブエノスアイレス | 1938 |
ウルグアイ 11 | 16 | Centenario | 60,235 | モンテビデオ | 1930 |
エクアドル 1 | 41 | Monumental Isidro Romero Carbo | 57,267 | グアヤキル | 1957 |
コロンビア 4 | 17 | Deportivo Cali | 52,000 | カリ | 2010 |
ベネズエラ 0 | 55 | Monumental de Maturin | 51,796 | マトゥリン | 2007 |
チリ 7 | 31 | Nacional de Chile | 48,065 | サンティアゴ | 1938 |
パラグアイ 6 | 46 | Genaral Pablo Rojas | 45,000 | アスンシオン | 1970 |
エルサルバドル 2 | 74 | Cuscatlan | 44,836 | サンサルバドル | 1976 |
ボリビア 3 | 82 | Hernando Siles | 41,143 | ラパス | 1931 |
ホンジュラス 1 | 81 | Olimpico Metropolitano | 37,325 | サンペドロスーラ | 1997 |
コスタリカ 3 | 32 | Nacional de Costa Rica | 35,100 | サンホセ | 2011 |
ジャマイカ 1 | 64 | Independence Park | 35,000 | キングストン | 1966 |
パナマ 1 | 61 | Romeral Fernandez | 32,000 | パナマシティ | 1970 |
キューバ 1 | – | Pedro Marrero | 28,000 | ハバナ | 1930 |
ドミニカ共和国 0 | – | Olimpico Felix Sanchez | 27,000 | サントドミンゴ | 1974 |
トリニダードT 0 | – | Hasely Crawford | 27,000 | ポートスペイン | 1950 |
グアテマラ 0 | – | Mateo Flores | 26,116 | グアテマラシティ | 1950 |
以 上
過去に筆者が執筆したサッカー関係の記事は下記の通りである。時間のある時にでもご覧ください。
ラテンアメリカの著名サッカー選手
https://latin-america.jp/archives/48542 上 各種アンケートにみる名選手リスト
https://latin-america.jp/archives/48545 中 ブラジル、アルゼンチン編
https://latin-america.jp/archives/48547 下 その他ラテンアメリカ編
サンパウロでサッカー見物をするときに心得るべきこと
https://nipo-brasil.org/archives/8861
ラテンサッカーと私
https://nipo-brasil.org/archives/12506
以 上